よ う こ そ ♡
聖書の話

新たに生まれる

barnabina


“Eternal life is not based on what you do, but on what Jesus did.”

永遠の命は、あなたが何をするかではなく、イエスが何をなさったかによって決まるのです。

今日は福音書の中の「新たに生まれる」という表現の由来を探っていくよ。

ヨハネによる福音書3章1節から始まる箇所で、イエスはニコデモという宗教指導者と出会う。

第1節に「ユダヤ人の議会の一員で、パリサイ人のニコデモという人がいた」とある。まずここでこのニコデモという人物について、非常に重要な情報が書かれている。第一に彼がパリサイ人であるということ。

さらに彼はイスラエル全土で最も重要なパリサイ人の一人だった。なぜかというと、彼はサンヘドリンとも呼ばれる最高議会の一員だったから。このグループについては福音書の中で何度も言及されている。ニコデモはサンヘドリンの一員であっただけでなくイスラエルのラビ、と呼ばれていることも後で明らかにされる。

つまりニコデモは、イスラエルで最も重要なラビの一人、おそらくイスラエルを代表するラビの一人だったんだ。ニコデモはパリサイ人であり、イスラエルの指導者であり律法に精通した学者でもあった。彼はユダヤ世界において非常に重要な人物だった。

さてここで、ニコデモがパリサイ人だったというのはどういう意味を持つだろう?君がキリスト教会で育ったんだったら、パリサイ人は悪者だってことはよく知っているよね。

でも実は、パリサイ人という概念は、ダニエルと彼の3人の友人がバビロン捕囚に遭っていた時代にまで遡る。パリサイ人という言葉はもともと、「区別された者」という意味なんだ。ダニエルとその友人たちはバビロンの文化から自分たちを区別し、その文化の食物の一部は口にしなかったし、バビロンの王を神として崇拝することも決してなかった。

そうしてダニエルの時代から600年後、自分たちを他の人々から区別された者と見なす、このパリサイ人と呼ばれるグループが誕生したんだ。人がどのように生きるべきかについての体系を、パリサイ人たちが作り上げたことが福音書全体を通して描かれている。

「人がどのように生きるべきかについての体系」。何て言うか知ってる?

それはずばり『宗教』だ。

パリサイ人たちは宗教を作り上げたんだ。これは良い動機から生まれたんだよ。彼らは神の法律、つまり旧約聖書の最初の五書に忠実でありたいと思って始めたんだから。彼らはそのためのシステムを作り上げた。

それがどんなふうに発展していったのか説明しよう。

旧約聖書の最初の五書を読んだことがある人ならご存知のとおり、そこにはたくさんの律法(法律)が含まれている。

その律法の中には非常に具体的なものも、かなり概説的なものもある。パリサイ人たちは、神の律法の一部があまりにもおおまかなものであることが気に入らなかったんだ。彼らは、五書の中のおおまかな律法の部分を具体的にする新しい律法と規則の書を作るべきだと考えた。

それがミシュナと呼ばれる書物だ。彼らはミシュナで、神のおおまかな律法について、人々が行うべき多くの具体的な事柄を加えた。一例を挙げるよ。

十戒の一つに、安息日を聖なる日としなければならないとある。けっこう有名なやつだ。

けれどこれはかなり大雑把な戒めだよね?パリサイ人はその曖昧さを嫌った。

だから安息日を聖なる日とするために必要なことをめちゃくちゃ細かく定めたんだ。彼らは、人が安息日をどのように聖なる日とすべきかについて、24章にわたる規則をミシュナに記した。

パリサイ人の信念、そしてあらゆる宗教の核心にあるのは、一心に規則に従うことで神を喜ばせることができるという発想だ。信心深さ、規則の遵守において、パリサイ人に匹敵する者はいなかった。ニコデモはそのパリサイ人の代表的な人物だった。

パリサイ人がイエスに激怒したのは、このためなんだ。イエスが旧約聖書の律法を破ったからではなく、旧約聖書の律法についてパリサイ人が定めた詳細な規則のいくつかを破ったから。イエスは特に、安息日に関するパリサイ人の規則を繰り返し破ったんだ。

イエスは安息日に何度も人々を癒した。それはミシュナで禁じられていたことだった。イエスは彼らの作った規則は神と人間の関係において重要ではないことを悟らせようとしたんだ。

パリサイ人を見て、「全然わかってないな」と考えるのは簡単だ。でも僕ら一人ひとりのデフォルトのモードは、パリサイ人のシステムと似ている。僕ら人間は、人生、教会、宗教、学校、職場において、自分が十分に良いかどうかを判断するのに役立つシステムを作りたがる。僕らは、他の人と比べて自分がどこに位置しているかを知りたいんだね。

私はあの人より優れているかな? よし、あの人より優れているということは私は、十分に良いっていうことだ。だから神は喜んでくれるだろう。

僕が言いたいのは、すべての宗教は基本的に測定装置だっていうこと。まるで宇宙の天秤のように、命の価値を測る測定装置。

ちょっとイメージしてみて。すべての宗教は天秤で象徴できるんだ。

つまるところ、悪いことよりも良いことを多くすることで、天秤を自分に有利に傾けないといけないんだね。

さて、僕らは皆、悪いことをするよね?とても大きな悪いことをする人もいれば中くらいの悪いことをする人もいるし、僕らの多くはとても小さな悪いことをするんじゃないかな?すごく小さくて、神様も気づかない、気にも留めないような小さな悪いこと。

わかる?これが、すべての根底にある考えなんだよ。僕らは心の底では、自分は善人だと思っている。だから人生において、悪いことを上回るだけの善行をしておけば死んだ時「よし、あなたは天秤を良い方に傾けた。さあ、こっちにいらっしゃい」と神様に言ってもらえると信じている。

それが宗教なんだ。宗教的な人は、善によって自分の悪を上回ろうとするんだよ。

ニコデモがまさにそうだった。彼がイエスのもとに来たこと、ちょっとじっくり考えてみてよ。

彼はユダヤ人、神に選ばれた民の一員だった。これは彼にとって大きなプラスだ。

ユダヤ人であるということ:良い。

律法を細かいところまで忠実に守っている:良い。

パリサイ人、他の集団とは区別された者である:良い。

イスラエルの教師と呼ばれるぐらい特別なパリサイ人である:本当に良い。

もし天秤が存在するとしたら、良い方に傾いているはずだろう?

彼は善人だし。実際、ニコデモは自分が宗教の天秤ではめちゃくちゃ優位だと信じていた。

でもニコデモはイエスのもとに来て、自分の宗教観を根底から覆されることになる。2節を見てほしい。「彼は夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、私たちはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が彼と共におられなければ、あなたのような奇跡を行う人はいないからです。』」(ヨハネによる福音書 3:2)

ここでちょっと考えてみよう。ニコデモがイエスを何と呼んでいるかに注目してほしい。「ラビ」。これは単に指導者という意味だ。世の中の大多数の人々はイエスを良い教師とか、あるいはまぁ預言者のたぐい、神へと導く多くの預言者のうちの一人だと見なしているよね。

ニコデモもまさにその立場にあったんだ。彼はイエスの信奉者だった。しかし、イエスを自分とある意味同等の存在と見なしていた。イエスが新しい宗教を始めると思っていたのかもしれない。イエスはニコデモに「私は新しい宗教を始めるために来たのではない。ニコデモ、私はあなたと宗教ゲームをするためにここに来たんじゃないんだよ。」と答えた。実際、イエスは3節でニコデモの話を止めてこう言っている。「よく聞きなさい。あなたは新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネによる福音書 3:3)これは「新たに生まれる」という言葉が 聖書で初めて使われた箇所だ。

この「新たに生まれる」という表現は、上から生まれるという意味にも取れる。ここでイエスが言っているのはこういうことだ。

「ニコデモ、宗教の細かい話はもう十分だ。あなたがここにいる理由は分かっている。あなたは、私が天秤の体系の中でどこに当てはまるのかを知りたいのだ。宗教と天秤、そしてどのようにして善を悪より重たくするかというあなたの豊富な知識に、私が何か付け加えられるか知りたいのだ。しかし、私がここにいるのはそんなことのためではない」

イエスはニコデモに、彼が神について、天秤について信じていることはすべて間違っている、私はあなたと宗教について話し合うつもりなどない、と告げる。

現実には秤など存在しない。神の愛を得るために善行をするのではない。神の愛は命の誕生と同じで、神から贈り物として与えられ、我々はそれをただ受け取るだけなんだとイエスは教える。

さて僕らのうち、肉体的に生まれるのと同等の善行をした人は何人くらいいる?

どうかな?

僕らは誕生するために何の努力もしないよね?自分の誕生のために何か頑張る人なんかいない。

同じようにイエスはここでニコデモに宣言しているんだ。肉体的な誕生と同じように、霊的な誕生にもあなたの頑張りや意志は何の関係もない、と。それはあなたが何かをしたり、努力したりするものではなく、秤で測れるものではない。

ニコデモよ、あなたは新しく生まれなければならない。実際、新しく生まれなければ、上から生まれなければ、誰も神の国を見ることはできない。ニコデモよ、私と宗教の違いはここにあるのだ。あなたが私のために何をするか、という宗教ではなく、私があなたのために何をするかという問題なのだ。

さあどう思う?

宗教の本質は、単に行動変容にあるんだよ、そうだろう?それは内にある善の発露のように外側を振る舞って、結果的にそれで十分であると願うことだ。うん、こう考えてみるといい。もし僕が植毛手術を受けたら、外見は良くなるかもしれないけれど、僕という人間は同じだ。ね?

こんなふうに外側のことを良くして、それが何らかの形で自分たちの内面を変えてくれることを期待するのが宗教というものだ。しかし、最初に変わらないといけないのは内側、僕らが何者であるか、ということだ。僕らが何をするかじゃない。だからこそ、イエスは誕生という美しい比喩を用いたんだ。

誕生とは、ある人生、ある環境から別の人生、別の環境へと移ることだ。宗教は外側から内側へと働きかけようとするけれど、それは決してうまくいかないとイエスは言っている。僕らは生まれたときと同じように、内側から外側へと変えられなければならない。そしてそれは僕ら自身の力で達成できるものではない。肉体的な誕生と同じように、与えてもらわないといけない。

イエスの話を聞いて立ちつくしているニコデモ。彼は混乱していたんだろう。4節でこう問いかけている。「人は年老いてから、どうして生まれることができるでしょう。まさか、もう一度母の胎内に入って生まれることはできないでしょう。」(ヨハネによる福音書 3:4)

ニコデモはこのとき「一体何を言っているんだ、この男は頭がおかしい」と思って心の中で笑っていたかもしれないよね。

イエスは7節で、彼にこう言っている。「新しく生まれなければならない、と私が言うのに、あなたは驚いてはならない。」(ヨハネによる福音書 3:7)

もし僕がニコデモだったら、なんなんだ、この人は一体なぜそんなことを言うんだ?と考えるだろう。

イエスがニコデモにかけた言葉の理由を説明しよう。

ニコデモについてさっき説明したことを覚えている?彼はイスラエルのラビ、教師だった。それは彼が、最低でも旧約聖書全体を暗記していたということを意味する。

彼は旧約聖書の隅々に至るまで熟知した専門家だったわけだ。だからイエスは彼に尋ねた。

「なぜ私が言ったことに今さら驚いているのですか?」と。

僕らには新しい心が必要なんだということは旧約聖書の中の至る所で示されている。外から内へではなく、内から外へ、だ。

実際、エゼキエル書36章にもこうある。

これは主が語られた言葉です。「わたしは清い水をあなたに振りかける。あなたは清くなる。わたしはあなたをすべての汚れとすべての偶像からきよめる。わたしはあなたに新しい心を与え、あなたの中に新しい霊を置く。」(エゼキエル書36章25-26節)

清められるために僕らがしないといけないことは何だと書いてある?

何もないよね?

「わたしはあなたの石の心を取り除き、肉の心を与える。わたしはあなたの中にわたしの霊を置き、わたしの定めに従い、わたしの律法を守るようにあなたを動かす。」 (エゼキエル 36:26-27)

神を心から敬い、神の国に入るには、新しく生まれ変わらなければならない。新しい心が必要だからだ。イエスは幾つかの例えを用いてこのことをさらに説明したんだけれど、ニコデモはまだ混乱していた。だから9節で、彼はさらにこう尋ねる。「どうしてそんなことがあり得るのでしょうか?」(ヨハネ 3:9)

ニコデモは動揺し、困惑していた。彼はそれまでずっと、律法に厳格に従う人生を生きてきたんだ。今になって、この人は自分の人生が間違っていたと言うのか?

本当に良い人になれば神の国に入ることができるのではないんですか?宗教が答えでないなら、何が答えなのですか?いったいどうすれば新しく生まれ変わるなんてことができるのでしょう?

イエスは、ヨハネによる福音書 3:16 でこの問いに答えている。これはおそらく聖書の中で最も有名な一節だろう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネ 3:16)

イエスがニコデモに言っているのはこういうことだ。

私はあなたに人生の解決策を与えよう。宗教の天秤を捨てるチャンスを与えよう。どのようにして新しい心が与えられるのか?どのようにして新しく生まれるのか?

大事なところだからよく聞いて。

それは昨日より今日、良い行いをしようということではないんだ。教会にもっと通うことでも、聖書をもっと頻繁に読むことでもない。そうしたことはキリストにおいて成長するのに役立ちはするけれど、僕らを新しく生まれ変わらせるものではないんだ。

新しく生まれることは彼への信仰を通してのみ起こるとイエスは言っているんだ。

あなたは自分が行った善のおかげで神の国に入れるのではないんだよ、ニコデモ。あなたが神の国を見つけることができるのは、私があなたのためにしていることを信じるようになったその時のみなんだ。

これが、キリスト教が世界中のどんな宗教とも異なる点だ。悲しいことに、キリスト教を標榜する一部の教会も含めて、あらゆる宗教と異なる点だ。

さあ今、心の中で自分にこう言い聞かせてみて。

永遠の命は私の行いではなく、イエスの行いに基づいています。

このことを最も明確に啓示しているのは、エペソ人への手紙2章8節と9節だ。

「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。これは、あなたがた自身から出たものではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ人への手紙 2:8-9)

どういうことか分かる?

永遠の命、神と共にある命、それは単に天国に行くという意味ではなく、僕らがこの地上でいま生きている、神との関係の中にある人生という意味なんだ。それは神が僕ら人間のためにしてくださったことによるもので、完全に神からの恵みなんだ。自分自身や、自分が神のために何ができるかとは一切関係ない。僕らは、イエスがご自身が語られたとおりの御方、すなわち道であり、真理であり、命であることを信じることによってのみ、信仰によってのみそれを得られるんだよ。

さあ、ここで聞くけど、あなたはどう?生まれ変わったと言える?

僕が聞いているのはクリスチャンの家庭で育ったかどうか、教会に通っているかどうかじゃない。毎日聖書を読んでいるか、毎日祈っているか、什一献金をしているか、そんなことを聞いているんじゃない。自分のことを善人と思えるか、あなたの中の善は悪より大きいか、なんてことも聞いていない。

もちろん宗教心が篤いか尋ねているのでもないよ。あんまり知られていないけど、実際イエスは宗教を憎んでいたんだからね。僕があなたに尋ねているのは、神の無償の賜物を受け取って新しく生まれ変わったかどうか、ということだ。

なんで僕らは事をそんなに複雑にしてしまうんだろう?そんな必要はないんだ。イエスが十字架上であなたのためにしてくれたこと、そして復活によって僕らに与えてくださった命を、ただ信じるだけでいいんだ。

これってあなたたちのうちの何人かには良いニュースなんじゃない?がんばって習得すべき方法も、獲得すべき功績も、善悪を計る天秤もない。自分のために命を捧げてくださったキリストをただ信じるだけでいいんだ。

もしまだこの話が完全には受け入れ難かったり、飽きるほど聞いたことがあったり、あるいは初めて聞いた話だったりするなら、もう一度、この天秤のシステムについてよーく考えてみてほしい。

宗教が実際どれだけ欠陥のあるシステムなのか。一例をあげると、なんだか良い感じの神様がいて、自分が十分に善良であれば天国に行ける、みたいな考え方があるけど、これには大きな欠陥がある。

完璧な善行のリストが存在するのか?

どんな善行をすれば悪い行いが帳消しになる?

天国に行くためには、死ぬ前にどれだけの善行をすればいいんだ?

締め切りはいったいいつなんだ?

次に僕のお気に入りの質問なんだけど、君はこれに答えたことがあるかな?

そもそもの話、十分に善良だって言える人っている?

もしいるんだったら、その基準は何なの?

僕らには新しい心が必要だ。

イエスの良い知らせとは、善良な人々が天国に行くということではない。

福音とは、イエスという唯一の善良なる方が、僕らが新しい命に甦り、あの愚かな秤を捨てることができるように、僕らのためにその命を捧げてくださったことなんだ。

あなたはイエスを信じるかい?

長い間、このことについて考えてきた人もいるだろうし、初めて考える人もいるだろうね。

もしあなたがイエスに従いたいなら、宗教ではなくイエスという人に従いたいと願うなら知っていてほしい。

初期の信者はクリスチャンと名乗ったことは一度もなかったんだよ。彼らは自分たちを「道」と呼んでいたんだ。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ4:16)

とイエス自身が言われたその道だ。もしあなたが今日、新しく生まれ変わりたいなら、新しく生まれ変わるための信頼の証として、僕と一緒にこのシンプルな祈りを捧げよう。

天の父なる神よ、あなたに申し上げます。私には救い主が必要です。そして、イエスが私の救い主であると信じます。私はキリストが十字架上で私の罪の完全な償いとしてしてくださったことに、全幅の信頼を置いています。私は自分の生い立ちや努力、教会の会員資格には頼りません。善行で悪い行いをなかったことにしようとする宗教にも頼りません。今、ここで、私は天秤を捨て、あなたと、あなたが私のためにしてくださったことに、私のすべての信頼を託します。イエス・キリストの血によって、あなたの子として新たに生まれた者として今日私を、あなたの家族に受け入れてください。

アーメン

スティーブ パツィア牧師

チェリーヒルズ教会

アメリカ イリノイ州スプリングフィールド

2024/11/24

Born Again

Pastor Steve Patzia

Cherry Hills Church

Springfield, Illinois, USA

November, 24, 2024

Scripture: John 3:1-16 

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バーナビーナ
バーナビーナ
40過ぎてから 『英語ペラペラのクリスチャン』 になった変なおばちゃん。 Jesusに出会えば幸せになれる人がたくさんいることに焦りまくって、落ち着かない毎日を過ごしている。
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