日本人は不安なのか?

日本人は不安なのかなぁ?
安心ってやたら書いてあるよね。
パートナーのバーナビー(アメリカ人、日本語けっこう勉強してる)の指摘で気づきました。
駅で電車待ちをしていたんですけど
安心の◯◯
〇〇で安心
みたいな看板がたしかに多いんです。
マーケティング戦略として安心を訴えるが良し、ということでしょう。
日本人は不安を感じる遺伝子が強いとも聞きますしね。
ところで、本当の安心って何でしょう?
私は無職無収入ですし持ち家もないし肩書きもないし服とかも別にたくさん持ってないけれど、割と安心してます。
なぜかというと、あきらめたから。
あきらめたのはまず
『普通』になること
自分ではない誰かのようになること
私、これまでに何度か死んでいてもおかしくない状況に陥っているんですよ。
癌とか、幼少期のトラウマでメンタルやられたりとかね。
そこから抜け出すのに、若干スピっている時期もあって
ありのままでいい
という言葉がツボでした。
それで常に追われているような、責められているような、苦しくてムダな努力をして自己肯定感が下がるという負のループは抜け出せたので楽になった。
楽にはなったんですけど、長い間、怒っていました。
どうして世界はこうも汚いんだ
どうして間違ったことがまかり通るんだ
そんなふうに思って、正しい自分が評価されないことに理屈をつけて怒っていた。
けれど怒るのってエネルギー使うんですよね。
だから前よりは楽だけど幸福感はあんまりなかったような。
そんな中バーナビーにつき合って毎週日曜にsermon動画を視聴するうちに
神はまだ罪人のときに私を愛してくれた
(ローマの信徒への手紙5:8より)
という事実がだんだん沁み込んできました。
(sermonって何年か聴いていると割と同じようなことが出てくるようになります)
今はわかります。
私が怒っていたのは
自分が、弱くて汚い
ということを直視できなかったから。自己正当化のために、怒ることで世間を見下していた。
それこそが弱さです、ええ。
神はまだ罪人のときに私を愛してくれた
ことが腑に落ちたとき、本当の意味であきらめることができたんです。
神は私をめちゃくちゃ愛してくれている。
私がクソなことはお見通しなうえで。
なにせ相手は神ですからね。
私の弱さとか、狡さとか、汚さとか、もうぜーんぶバレッバレなわけです。
それでも愛していると言ってくれる。
超絶すごい存在、至高の存在である神が、ですよ。
愛してくれちゃっているのです。
もう正しいとか、すごいとかいうフリをする必要はない
弱くて汚い自分であることを否定する必要はない
って気づけたんです。じわじわですけどw
つまり、弱くて汚い自分でしかないことにあきらめがつきました。
そうすると逆に、自分の良いところもよく見えるようになっていきました。
ありのままであるために、怒る必要もなくなっていき
今まで知らなかったレベルの安心を感じるようになりました。
聖書には、私の問いに先回りするようにすべての答えが書いてあります。
聖書をオススメする立場としては、もはや不安などまったくないと言い切りたいところですが、やっぱり癖みたいなもんで不安な気持ちは出てきます。怒りも湧きます。
でもそのたびに、神に愛されているということを思い出す。
Jesus、イエス様が命を投げ出すぐらい私を愛していると、文字通り苦しみ死んで示してくださったんだと思い出す。
不安になる→思い出す
その→の時間が短くなっていく感じで、より心穏やかに過ごせるようになっていっています。
あなたにも、この安心感を感じてほしいです。
Amen!